びんたとえん

スマトラ島の森で一人暮らし中です。

東日本大震災を振り返る。➀

 

 私が海外協力隊へ行くことになったのは、10年前の2011年のこと。

東日本大震災が起こった年でした。

中学生のころからの夢でどうしてもあきらめきれなかった私は7回の応募ののちようやく合格切符を手にすることができたのでした。(健康診断の結果が悪く6回落とされました。笑)

 

あの震災が起こった時、私は病院の厨房で仕事をしていてその日は早番勤務。(5時から14時まで)

 

食事を病棟へ運ぶ配膳車が倒れるんじゃないかというほどの強い揺れと、停電。

携帯電話の電波も停止。震源地がどこなのか?どんな被害が出ているかもまったくわからい状況。

 

私の勤務先の病院は病院の構造としては珍しく2階にオペ室と器具の滅菌質と一緒に厨房があってその時は同じ階で心臓のオペをしていて、青いプラスチックグローブを真っ赤な血で染めたドクターが駆け足でオペ室のドアから出てきたのを覚えています。

 

携帯電話の電波は停止。どこが震源地なのか、どれくらいの被害が出ているのかは全くわからないままです。ラジオがあれば。と強く思いました。

建ったばかりの病院でオール電化だった厨房の機能は全部停止。ごはんも炊けなくなり、回転窯の中に少しだけ残っていた熱湯を使いきって災害備蓄用のアルファ化米をどうにか170名の患者さん分戻すことができ、エレベーターも止まって停電で薄暗い階段を使ってバケツリレー方式でトレーに乗せたお食事を一つ一つ手で運んだのでした。

 

そんな中困ったのが、トロミ剤 (誤嚥性肺炎を防ぐためお食事にかけるゼラチン質の増粘剤)を溶かすためのお湯でした。トロミ剤は通常、粉末状のものを熱湯で溶かして使うのですがこれは水ではダマになってしまいなかなか溶けないのです。

 

勤務先から5分ほどのところに家があった私は、トロミ剤を溶かすためのお湯を溶かすため家にあったカセットコンロを取りに戻ることにしました。

 

道路では停電のため信号も止まっており、大きな交差点では警察官が旗を持って交通整理を始めていました。

 

次回に続きます。